第35回(平成24年5月2日)
西川・新川立体交差(新潟市西区)
1 はじめに
新潟市中心部から西南西に約10q、新潟市西区槇尾には二級河川新川の上を一級河川西川が流れる川と川の立体交差があります。
全国にも川と川の立体交差はありますが、上を流れる川がトラス橋形式となっている立体交差の場所は稀ではないでしょうか。
先人達の努力と苦労により、新潟の大穀倉地帯を水害から守るため、現在の形があることを紹介します。
2 越後平野の成り立ち
現在の越後平野は、約1万8千年前に始まった海面上昇とともに海底に沈んだ土地が信濃川や諸河川から供給された土砂により埋め立てられてできあがりました。海岸線には砂丘列が形成され、その内陸部には氾濫原や三角州、海岸低地、潟などが作られてきました。
信濃川など諸河川は幾度となく蛇行流路を転流させ、氾濫を繰り返してきました。一端、氾濫すると海岸線に発達した砂丘列により内陸側の排水が進まず、広大な低地、湿原が形成され、越後平野となりました。現在は183平方キロメートルに及ぶゼロメートル地帯が残っていますが、放水路や排水機場の整備などにより都市や優良な美田が形づくられています。
3 西川について
現在の一級河川西川は燕市大河津で信濃川から分派し、新潟市西区平島で信濃川に合流しています。過去に西信濃川と呼ばれていた記録もあり、信濃川が幾度となく流路を変えたなかで、一番西側を流れていたときの跡であるとも言われています。以前、西川は新潟港と西蒲原地域を結ぶ動脈でした。江戸時代には蒲原船道と呼ばれる川船株仲間が36隻の大型川船をを使用して西川舟運に従事していました。年貢米や商人の荷運搬のほか渡し船もあり、明治時代には新潟から吉田(現燕市)まで蒸気船が運航していたときもありました。
現在は、舟運はなく、主として上水道、かんがい用水の供給など利水面で地域にとって貴重な河川となっています。
4 新川について
新川は、西蒲原地域を流域とし新潟市西区五十嵐3の町で日本海に流れ出る二級河川です。正保2年(1645年)の越後国絵図には、越後平野から海への排水河口は北に荒川と信濃川の2河川が描かれているだけです。現在は、大河津分水をはじめ20の放水路が建設され、内陸部から日本海に排水をしています。これらの放水路は新田開発、潟湖や低地の排水改良のため、人の努力と汗によって作られた人工の放水路で、新川もそのひとつです。
新川流域の西蒲原地域は江戸時代、大小の潟湖が点在する広大な低湿地でした。重要な舟運路である西川の流れを維持しながら、低地の排水を行うための新川を建設するには西川と立体交差させなければならず、新川完成当時の江戸時代としては高度な技術と多くの資金、人手を要しました。
5 西川と新川の立体交差の歴史
(1) 初代(木製底樋)
新川が初めて通水したのは文政3年(1820年)でした。初代は西川の下に木製の樋管(底樋)を埋めて、そこに新川の水を流すものでした。西川を仮迂回させ、底樋を作り、西川の流路をその底樋の上に戻す工事でした。幅3間(5.4m)、高さ4尺(1.2m)、長さ41間4尺(75m)の木製樋管が2門作られ、江戸時代最大級の底樋工事でした。
その後、底樋の増設や修繕が幾度となく繰り返されましたが、木製であることから、新川の流下機能を維持する苦労は絶えませんでした。
西川を迂回させる底樋普請絵図
|
木製底樋の模型
|
(2) 2代目「新川暗閘」
木製底樋の上下流で平常時10センチメートル、洪水時で約30センチメートル以上もの水位差が生じるなど、開水路に比較して排水断面の不足が生じていました。そこで、明治42年(1909年)に県営事業で改修に着手し、アーチ型煉瓦及び花崗石造りの底樋9門が大正2年(1913年)に完成しました。この2代目となる「新川暗閘」により西蒲原全郡の治水は好転し、併せて大河津分水路の完成により地域農業の急速な発展を促しました。
(3) 3代目「西川水路橋」
2代目新川暗閘も建設以来40年が経つと閘底に土砂が沈積し流水の妨げになってきました。そこで国営事業により、昭和30年(1955年)に新川閘門を撤去し新川の水を直流させ、その上に37メートル余のトラス2連の水路橋を架けて西川を通水させました。
橋の上を西川が流れている
|
橋(西川)の下を新川が流れている
|
|
参考文献
西蒲原土地改良史(西蒲原土地改良区)
西川改良及び新川底樋改良工事報文(新潟県)
越後 新川開削(越後新川まちおこしの会)
アクセス
新潟市西区
JR越後線 内野駅から徒歩10分
国道116号新潟西バイパス曽和ICから0.8q
「西川・新川立体交差」周辺地図(Google Map)の表示