大源太川第1号砂防堰堤
大源太川第1号砂防堰堤は、信濃川水系魚野川右支川大源太川の「四十八滝」と称する地盤の強固な狭窄部に築造された、直轄砂防事業として日本で最初に完成したアーチ式砂防堰堤です。昭和10年に魚沼地方一帯を襲った暴風雨によって引き起こされた災害を契機とし、直轄砂防事業による集中的な砂防工事が開始されました。その対策の中の一つとして、大源太川第1号砂防堰堤が建設されています。流麗な線形と美しい石積みが特徴のアーチ式堰堤で、現在も現役の砂防堰堤として河床堆積土砂の流出を抑え、下流の湯沢町中心部の発展に大きく寄与しています。
昭和10年災害と直轄砂防の開始
魚野川上流域は地形が急峻なうえ、冬期間には4mにおよぶ積雪があることから、昔から土砂流出の多い河川であり、度重なる土砂災害に流域住民は悩まされていました。そういった中、昭和10年の魚沼地方一帯を襲った暴風雨によって引き起こされた災害を契機として、昭和12年に魚野川で直轄砂防事業が開始されました。この災害により、東京と新潟を結ぶ上越線が長期にわたり不通となっています。当時上越線は、満州やソ連と東京とを結ぶ国防上の重要な交通路となっており、政府としても、度重なる土砂災害が発生している魚野川上流域で、砂防対策が重要であるという判断がなされたと推測されます。
土砂災害の最も著しかった魚野川とともに荒廃した大源太川には、災害からの復興をめざして3基の砂防堰堤が計画されました。その中の1基として、大源太川第1号砂防堰堤が計画されています。
大源太川第1号砂防堰堤の誕生
大源太川第1号砂防堰堤は、昭和14年に内務省新潟土木出張所魚野川砂防工場により築造された、高さ18メートル、長さ33メートル、計画貯砂量は550,000m3と、当時としては堂々たる大型のアーチ式堰堤です。にもかかわらず施工期間はわずか1年半であり、当時の技術力の高さが伺えます。構造は粗石コンクリート、形式は定半径アーチ式であり、法面は練石積となっています。アーチ式堰堤は全国的にもめずらしく、全国で100基もありません。アーチ式砂防堰堤の場合、堰堤サイト両岸の岩盤が硬く良好である必要があります。一般的にアーチ式砂防堰堤は重力式堰堤に比べて、堤体積を三分の一に軽減することが可能であり、経済的な構造形式といえます。
昭和10年代の湯沢砂防工場による砂防工事は、山間僻地の施工のために機械類等がほとんど使用できない状況にありました。セメント類等の資材運搬も基地から人肩または牛馬に頼り、コンクリートもミキサーではなく鉄板の上の手練りであったと言われています。堰堤の表と裏に並べてある間知石を積むのには、高度な技術が必要でした。大源太川第1号砂防堰堤のアーチ形状の基礎を気づいた石工の中には、「石工の神様」と呼ばれた高知か九州出身の職人もいたようです。
堤体は「粗石コンクリート構造」と呼ばれる構造形式となっております。これは、堤体の表面と裏面を間知石などの割石で構成し、内部には中詰石(転石)として付近の河床材料を30%程度混入し、その隙間にコンクリートを充填したものです。この工法を用いれば、高価であったセメント量を低減させることが可能であったことから、当時の砂防堰堤建設にあたって一般的に用いられていました。
こうして大源太川第1号砂防堰堤は作られましたが、完成後24年を経た昭和38年に堤体嵌入部の岩盤、および堤体内部からの漏水が著しいため、堰堤補強のためのグラウト工事が行われ、堰堤の保全が図られ、現在に至っています。
美しい景観を織り成す「大源太キャニオン」
大源太川第1号砂防堰堤が作り出した「大源太湖」は、第2次世界大戦後、アメリカ軍が本堰堤の暗渠を閉塞し、水を貯留させてボート遊び場として利用したことをきっかけに、リゾート施設としても使用されています。現在は周辺のキャンプ場等観光施設と併せて「大源太キャニオン」と称され、毎年多くの人が訪れています。本堰堤は、本体表面の石積みとアーチ構造が織り成す美しいその姿から、このリゾート地の景観において、ランドマーク的存在となっており、訪れる人たちに親しまれています。平成15年には、国土の歴史的景観に寄与している事が認められ、「登録有形文化財」に登録されました。
完成から85年が経ったいまでも地域の安全・安心を守りつつ、地域のシンボルとして親しまれ、大源太第1号砂防えん堤は今後も地域の発展を見守り続けて行きます。
参考文献
基本データ(大源太川第1号砂防堰堤 諸元)