関屋分水路の構想 〜堀割町の由来〜
関屋分水路は古くから考えられていて、文政年間(1818年〜1829年)に横山太郎兵衛が唱えたのが始まりと言われています。1911(明治44)年には、新潟近郊の坂井輪地区の排水を良くするため、現在の関屋分水路のやや下流側に長さ約1.7kmの堀割がつくられました。しかし、海からの砂によって河口が埋まり、すぐに効果がなくなったと言われています。現在の新潟市堀割町は、その名残の地名なのです。
現在の関屋分水路は、新潟市を洪水から守るため、昭和39年に着手し、昭和47年に通水しました。ここでは関屋分水路事業の概要とその効果について紹介します。
関屋分水路事業の概要
昭和の初め、信濃川の上流から運ばれてくる土砂によって、新潟港は水深が浅くなり、船の行き来が難しくなると心配され、関屋分水路が検討されました。その後、1960(昭和35)年頃になって新潟市内で地盤沈下による浸水被害が目立つようになると、関屋分水路は信濃川の治水対策の一環として、その計画が唱えられるようになり、その計画は本格化しました。つまり、新潟港にたまる土砂を減らすことと、新潟市を信濃川の氾はん濫から守ることをおもな目的に、関屋分水路事業は動き出したのです。1964(昭和39)年3月、新潟県の事業として着手されましたが、その6月に起こった新潟地震によって県は震災復興に全力を注がなければならなくなります。1965(昭和40)年に、信濃川が1級河川に指定されたことも重なり、関屋分水路は国の事業として行うことになりました。
工事の概要
分水路の長さは約1.8km、川幅は約 240〜290m あります。この大きな人工の川を、7年かかって掘り上げました。分水路には5本の橋が架かり、信濃川の水量を調節するため、本川には幅30mのゲート3門および魚道を有する信濃川水門、分水路河口部には幅41mのゲート5門および左岸に閘門、両岸に魚道を有した新潟大堰を設けました。当時、関屋分水路を通す一帯は新潟市の中心部から西方に約3km、郊外の住宅地として急速に発展していた地域でした。移転の必要がある家屋は、693戸(870世帯)に及びました。病院、工場、商店、幼稚園、市営住宅、民営アパート、それに個人住宅を含めた大規模な移転となり、ひとつの町がそっくり移動するようなものでした。その多くは、近くの関屋競馬場跡地に移り住み、「信濃町」「文京町」という新しい町が生まれたのです。貴重な用地を提供された市民の協力により、1966(昭和41)年から始まった用地補償は、3年というたいへん短い期間で終えることができました。
また、この工事で働いた人の人数は約60万人、掘った土砂の量は約400万m3で、これは県庁の約20杯分にあたります。掘った土砂は当時つくっていた新潟バイパスの盛り土などに利用され、こうした都市基盤が新潟市の発展を進めました。
関屋分水路の役割
関屋分水路には様々な役割があります。- 新潟市を信濃川の洪水によるはん濫から守る
信濃川の水を分水路から直接海に流すことにより、洪水のはん濫から市街地を守ります。 - 信濃川の水量を調節する
渇水時に日本海に流れ出る水の量を抑えて、水道や農業用水の取水のために必要な水位を確保しています。 - 信濃川への塩分の浸入を防ぐ
信濃川と分水路に設けられた水門・堰により、信濃川本川に塩分が入るのを防ぎます。 - 新潟西港へ土砂がたまるのを防ぐ
多量の土砂を含んだ洪水を分水路から流すことにより、西港に土砂が堆積することを防ぎます。 - 新潟海岸の侵食を防ぐ
分水路から流れ出る土砂により、新潟海岸の侵食防止に役立ちます。
関屋分水路の効果 〜もしも関屋分水路がなかったら〜
2004(平成16)年7月12日夜から13日夕方にかけて長岡、三条地域を中心に激しく降った雨は、栃尾市で日雨量421mmを記録するかつてない大雨となりました。信濃川下流では、すべての水位観測所ではん濫注意水位(当時の警戒水位)を超え、うち2箇所でははん濫危険水位(当時の危険水位)を超える洪水となりました。もし、関屋分水路がなかった場合、信濃川水門から萬代橋にかけて水位はHWL(High Water Level:計画流量を安全に流すことのできる水位)を超え、堤防が壊れたり、氾らはん濫が生じるなど、新潟市の広範囲にわたって大きな被害が発生していたと考えられます。
※はん濫注意水位: | 住民のはん濫に関する情報への注意喚起、水防団の出動の目安となる水位. |
※はん濫危険水位: | 洪水により相当の家屋浸水等の被害を生じるはん濫の恐れがある水位. |
参考文献
信濃川下流河川事務所ホームページ: http://www.hrr.mlit.go.jp/shinage/
基本データ
※通水は1972(昭和47)年