第5回(平成21年11月18日)

越後平野発展の礎 「郷土の宝」  信濃川大河津分水路(燕市・長岡市)

江戸時代から続いた悲願の治水事業

大河津分水路全景  かつての信濃川は、日本海沿岸に沿って伸びる弥彦山、角田山などの丘陵地帯、砂丘地帯によって日本海に流れ出ることができないため、越後平野を蛇行して流れ、たびたび洪水による被害を起こしていました。平常時でも越後平野は水はけが悪く腰まで浸かる深田での農作業であり、洪水被害はさらに農家を悩ますものでした。このため、江戸時代中ごろより、現在の燕市分水地区から日本海に向けて人工河川を造り、信濃川の水を日本海へ流す分水計画の必要性が地域の人々により何度も幕府等に訴えられました。
 1869(明治2)年、明治政府は大河津分水の工事を始めましたが、通水を目前にした1875(明治8)年、信濃川の流量が減ることで新潟港の水深が浅くなり、船の航行に支障が出るという政府が雇った外国人技師による報告を背景に大河津分水は廃止され、治水事業は堤防強化を中心としたものに移行しました。それでも地域の人々は大河津分水が必要であると考え、田沢実入など多くの人々が大河津分水の必要性を訴え続けました。そうしたなか、1896(明治29)年に「横田切れ」と呼ばれる大水害が発生し、政府は大河津分水の計画を再び検討、1907(明治40)年に工事再開を決断しました。
 1909(明治42)年から本格的な工事が行われ、規模の大きさと工事の難しさから、当時「東洋一の大工事」、「東洋のパナマ運河」と称された大河津分水工事は、1922(大正11)年に洗堰(あらいぜき)、自在堰(じざいぜき)、固定堰(こていぜき)の各施設と分水路が完成し、通水が実現しました。
大正11年大河津分水通水 エキスカベータによる掘削工事

大水害「横田切れ」

 1896(明治29)年7月、越後平野は「横田切れ」と呼ばれる大水害に襲われました。現在の燕市横田をはじめ流域のいたるところで堤防が破堤し、燕市を始め長岡から新潟まで、越後平野一帯が泥の海と化した未曾有の大水害となりました。床上・床下浸水した建物は43,684戸、水をかぶった田畑は58,257ヘクタール、被害総額は当時の新潟県の年間予算とほぼ同額にまで達しました。低地では3ヶ月以上も水が引かず、衛生状態の悪化に伴ってチフスや赤痢の伝染病なども発生し、洪水による死者と併せ、1,200人を超える人が命を落とすこととなりました。
横田切れ:破堤から21日後の燕市横田の様子 横田切れの様子:信濃川洪水絵巻

自在堰の陥没と補修工事

自在堰の陥没(昭和2年)  「横田切れ」を契機に工事が再開され、1922(大正11)年に通水した大河津分水も、わずか5年後の1927(昭和2)年、自在堰の陥没という異常事態が発生します。陥没の原因は、流れる水の力によって、自在堰の基礎部分の川底が掘り返されてしまったことにありました。この陥没によって、信濃川を流れる水のほとんどが分水路へ流れ込むようになり、信濃川下流の田畑の水は枯れ、上水道の一部までが枯渇してしまいました。
 この事態を受け内務省は、信濃川に流す水を確保するための応急工事をただちに行いました。しかし、自在堰の被害が大きく、自在堰の復旧工事での対応が不可能であったため、内務省は自在堰を撤去し、自在堰に代わる新たな可動堰の建設と川底の侵食を防ぐ床留・床固の建設を行う補修工事の実施を決定し、新潟土木出張所長としてパナマ運河の測量設計に携わった技術者・青山士(あおやま・あきら)を、現場事務所責任者として宮本武之輔(みやもと・たけのすけ)を派遣しました。補修工事は、高い技術力と信念をもった技術者たちの活躍により、陥没から4年後の1931(昭和6)年に終了しました。
信濃川補修工事完成(昭和6年):可動堰 信濃川補修工事竣工記念碑
青山 士(あおやま・あきら) 第二床固

水害の克服による大穀倉地帯への発展

 大河津分水は現在、洗堰と可動堰の調整により、治水、利水の役割を果たしています。平常時は洗堰を開き、生活用水や農工業用水として毎秒270立方mの水を信濃川下流方面に供給し、これを超えた水を分水路に流しています。一方、信濃川下流の洪水時には洗堰を閉じることで、可動堰から分水路を通じて洪水を日本海へ流し込み、越後平野を水害から守っています。
 大河津分水の完成と、さまざまな治水の取り組みにより、越後平野の水害は大きく減少しました。かつて悪水に苦しめられた水田は、豊かな実りを得られるようになり、越後平野は日本屈指の穀倉地帯へと発展していきました。また、洪水氾濫被害が減ったことにより交通網と産業が発達し、下流域の市町村は大きな発展をとげました。
大河津分水の仕組み
日本一の穀倉地帯への移り変わり
交通網と産業の発展

受け継がれる桜並木とおいらん道中

 長年の悲願であった大河津分水の建設を記念し、1910(明治43)年ごろから、地域の人々が分水路沿いに桜を植え始めました。自在堰陥没に伴う工事や第2次世界大戦の影響により、桜が伐採されたこともありましたが、地域の人々は桜を大切に育て、守り抜いてきました。また1934(昭和9)年頃には、桜の木の下を美しく着飾った「おいらん」が練り歩く「おいらん道中」が始まりました。戦時中に取りやめとなった時期を除き、現在までこの催しは続いており、桜並木とともに多くの観光客の目を楽しませています。
大河津分水路の桜並木 おいらん道中

生まれ変わる洗堰と可動堰

 大河津分水の主要な施設である洗堰と可動堰は、幾たびもの洪水に耐え、越後平野の発展と人々の安全安心を支えてきました。しかし、建設から長い年月を経ているため、施設の老朽化が進み、洪水を分流する機能が損なわれる恐れが生じてきました。
 このため、1992(平成4)年から2002(平成14)年に新しい洗堰の建設工事が行われ、洗堰の機能は新しい洗堰へと引き継がれました。旧洗堰は2002(平成14)年に国の登録有形文化財に登録され、治水の歴史を伝える貴重な施設として保存されています。また2003(平成15)年から新しい可動堰を造る事業も進められており、完成に向け現在も工事が続けられています。
 このように大河津分水では、老朽化した分流施設の改築は進んでおります。しかしながら、信濃川の河道計画では将来大河津分水で毎秒11,000立方mを流すこととしており、現在の大河津分水の洪水流下能力(新しい可動堰完成時毎秒約8,400立方m)の向上が求められております。また、第二床固等の河床安定の構造物の老朽化も顕著化しているため、今後も大河津分水路改修を進めて行く必要があります。
現在の洗堰(中央)と旧洗堰(右上) 現在の可動堰(右)と建設中の新可動堰(左)

河川にまつわる情報発信「信濃川大河津資料館」

信濃川大河津資料館の全景  昭和53年10月に開館した信濃川大河津資料館は、大河津洗堰改築事業が竣功した平成14年4月にリニューアルオープンし、「大河津分水」の歴史と役割に"出会い""学ぶ""極める""ふれる"ための施設として、多くの方々が来館されています。
 信濃川大河津資料館では、越後平野を水害から守るために長い年月をかけて完成した大河津分水の歴史と役割について学べます。館内では、大河津分水完成前の越後平野の様子や大河津分水工事の資料、「もし大河津分水がなかったら越後平野はどうなるのか」といったシミュレーションコーナーなどがあり、信濃川や西川の変遷も紹介しています。 また,精巧な模型やCGなどを使い、分かりやすく工事の苦難を解説しています。資料館周辺には、信濃川の魚を観察できる「魚道観察室」、文化財の「旧洗堰」やその前面に広がる「大河津分水公園」もあり、子供も大人も楽しめる施設となっています。
 この他に、信濃川大河津資料館は、信濃川大河津防災センターとしての役割も担っており、燕市との協定のもと、災害時における地域の方々の避難場所や燕市の防災拠点として位置づけられています。また、平常時には信濃川に関する防災情報の発信も行なっています。
信濃川大河津資料館4階展望室からの眺め

参考文献

  • 信濃川河川事務所ホームページ: http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/
  • 信濃川大河津資料館: http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu/index.html
  • 大河津可動堰情報館: http://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/kadouzeki/index.html

    アクセス

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