第36回(平成24年5月6日)

「開港都市にいがた」の築港の礎
  〜 新潟港 西突堤、東突堤 〜 (新潟市中央区、東区)

「開港都市にいがた」の海の玄関口 新潟港

  新潟港は西港区と東港区から構成されている港です。このうち西港区(以下、新潟港という)は、信濃川の河口部において北前船の寄港により繁栄し、安政5年(1858)の日米修好通商条約により函館、神戸、長崎、横浜とともに日本海側唯一の開港場として開港五港に選ばれた後、明治元年(1868)に開港した歴史ある港です。
  現在は、新潟と佐渡島を結ぶ佐渡航路や北海道、秋田、敦賀とを結んでいる長距離フェリー航路が就航しているほか、豪華なクルーズ客船も寄港するなど、新潟の賑わいある「海の玄関」として、また市民から親しまれる憩いの親水空間として発展しています。
現在の新潟港
現在の新潟港
新潟港を出航する飛鳥Uを見送る市民
新潟港を出航する飛鳥Uを見送る市民

新潟港の開港

 明治元年、開港当時の新潟港は、水深も浅く海波と流下土砂による港口閉塞が頻繁に発生し航路が定まらない等の悪条件下にあり、喫水の深い外国船にとっては沖合での停泊と艀による沖荷役を余儀なくされる非常に不便な港でした。
  このため、華々しい開港のデビューとは裏腹に外国貿易は不振を極め、開港により開設されたイギリス、ドイツ、オランダ、アメリカなど各国の領事館の閉鎖が相次ぎ、明治12年10月には最後まで存続していたイギリス領事館も閉鎖をされてしまい、新潟の人々や地域経済にとって大きな失望をもたらす事になりました。
 この貿易不振の第一原因が新潟港の機能不全、つまり信濃川の河口状態の不良にあるとの認識から、明治から大正・昭和にかけて、近代港湾建設に向けた先人達の“港づくり”の努力が続けられていくことになります。

明治3年の新潟港図
明治3年の新潟港図
明治初期の外国船入港隻数
明治初期の外国船入港隻数

信濃川河口修築工事(流末工事) 明治29年〜明治36年

  明治政府は、明治4年から明治14年にかけてイギリス人ブラントンをはじめオランダ人リンドゥ、エッセル、ムルデルら外国人技師を調査のため新潟港に派遣し、信濃川治水対策と併せた河口改修の重要性や河口における東西二つの突堤築造に関する提案を受けました。その後、明治16年11月には内務省の「古市公威」技師によって、「信濃川河身改修を速やかに着手することが適当である」ことに加え、「当地新潟が願望している河口修築に対しては、まず突堤工事を施して一時の改良を図り同時にこれを築港の基礎に供用せん。」と結論づけた調査結果が報告されました。
こうして、明治18年には政府が「信濃川治水計画」を正式決定するとともに、明治29年3月14日、内務大臣令達により河身改修に伴う河口修築工事(流末工事)の着手が決定しました。
 この工事において、信濃川河口部に東西2本の突堤が築造されることとなり、国の直轄工事として明治31年に着手、度重なる冬期風浪や信濃川の洪水による被災と手戻り工事を繰り返しながら明治36年12月20日に竣工し、その結果、信濃川の出水時でも多量の流下土砂は沖まで流れるようになり、多少の水深変動はあるものの船舶の航行には工事前ほどの影響は無く、流路を安定させられるようになりました。
古市公威技師
古市公威 技師
信濃川流末工事平面図
信濃川流末工事 平面図

信濃川改修工事(河口修築工事) 明治40年〜大正14年

  信濃川河口修築工事は、東西の両突堤を恒久的な構造物として補強築造するとともに、港口部の浚渫及び西突堤への灯台設置をおこなうものでした。
  西突堤については、堤体の高さを低水面上12尺(3.6m)まで嵩上げし、幅は24尺(7.6m)、延長は834.5間(1,517m)まで延伸することとし、構造は、既設突堤の崩壊した大石等を均した基礎の上に1個重量14〜24tのコンクリート方塊を2〜3段積んだ直立堤として築造するとともに、その両側を方塊と割石の根固によって安定させるもので、明治42年7月1日に工事着手し、大正13年11月17日、15年以上の歳月をかけた工事がようやく完成しました。
  先端部には鉄筋コンクリート造りの赤色の灯台が設置され、大正14年6月20日に発点火されました。

西突堤標準断面図
西突堤標準断面図
建設中の西突堤 (大正13年5月6日)
建設中の西突堤 (大正13年5月6日)

  西突堤での工事における特筆すべきものとして、短時間に集中的かつ効率的に施工するため、我が国では最初となる先回式の起重機(タイタン起重機)が導入されました。
  この起重機は、当時内務省新潟土木出張所に従事していた「安藝杏一」技師の設計によるもので、2条の軌条によって突堤上を移動し、ブーム長は72呎(21.9m)あり、360度の回転可能で、吊揚能力はブーム半径65呎(19.8m)で15t、45呎(13.7m)では25t吊りとなっており、ブームが回転することにより堤体だけではなく堤側の方塊据付についても水上作業でなく陸上作業が可能となるため、西突堤での方塊据付においては特に活躍しました。
 その後、昭和39年6月16日の新潟地震の後に永い役目を終え用途廃止されました。
  一方、東突堤についても旧突堤を補強する形でおこなわれ、割石を基礎として上部を大石で被覆し、天端高は低水面上4尺(1.2m)、幅1間(1.8m)、延長を710間(1,290m)とするもので、大正6年7月10日に工事着手し、大正14年1月30日に完成しました。

タイタン起重機(大正14年12月10日)
タイタン起重機(大正14年12月10日)
東突堤(大正11年10月20日)
東突堤(大正11年10月20日)
 ※東突堤は、新潟臨港開発事業(大正12〜昭和6)及び昭和30年代の地盤沈下対策事業に伴い、現在は河口部の一部を残して撤去又は埠頭用地として埋め立られています。

新潟港の歴史を見守り続ける「西突堤・東突堤」

  その後、新潟港は戦時下における荒廃、水溶性天然ガスの採掘に伴う大規模な地盤沈下や新潟地震による壊滅的な被害など、幾多の被災や困難に遭いながらも、その都度、改良と改修を重ねて現在の姿に至っています。
  新潟港の西突堤および東突堤は、度重なる嵩上げや断面改良をおこないつつも、東突堤の一部撤去を除き、信濃川河口において明治の頃の平面線形を維持するとともに、現在でも現役の第一線防波堤として港内を守り続け、港湾を通じた広範な経済活動や、佐渡航路や長距離フェリー航路の安定的な運行を陰で支えるとともに、静かに、そして力強く、新潟港の歴史を見守り続けています。
現在の新潟港
現在の新潟港(信濃川河口部)
(右側西突堤の更に先には西防波堤と第二西防波堤も整備)
港を守り続ける「西突堤」
港を守り続ける「西突堤」

参考文献

  • 新潟港修築史 〜明治・大正・昭和〜 (運輸省第一港湾建設局発行)

    基本データ

  • 所在地 :西突堤 新潟市中央区
           東突堤 新潟市東区
  • 構 造 :ブロック式混成堤
  • 延 長 :西突堤 1,699 m
           東突堤 481 m
           (東防波堤 336 m、東導流堤 145 m)

    アクセス

  • 新潟みなとトンネル左右両岸の立坑(入船みなとタワー、山の下みなとタワー)から眺めることができます。
     (西突堤、東突堤には立ち入ることができません。)
  • 入船みなとタワー  : 新潟駅から車で15分
  • 山の下みなとタワー: 新潟駅から車で15分

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