第31回(平成24年4月10日)

安寿と厨子王の悲話を今に伝える「日本百名橋」の橋
                       直江津橋(上越市)

「日本百名橋」直江津橋

 安寿と厨子王の物語をご存じでしょうか。上越市を流れる一級河川関川の河口付近に位置する直江津が、この物語の舞台の一つとなっています。現在では、関川には河口から荒川橋、直江津橋、JR信越本線の鉄道橋が架けられていますが、物語中の応化の橋は今はありません。
 直江津橋には、高欄に物語のレリーフがはめ込まれており、当時の応化の橋を思い起こさせます。その歴史ある直江津橋は、新潟県では萬代橋とともに「日本百名橋」に選定されています。
「日本百名橋」直江津橋
直江津橋 関川右岸から直江津の市街地を望む
「日本百名橋」直江津橋
直江津橋 デザイン高欄とデザイン照明
「日本百名橋」直江津橋
デザイン高欄
安寿と厨子王の物語のレリーフがはめ込まれている
「日本百名橋」直江津橋
「安寿恋しやほうやれほ 厨子王恋しやほうやれほ
鳥も生あるものならば とうとう逃げよ追わずとも」
佐渡でこの唄を耳にした厨子王は、
その盲目の女が母と知ります

安寿と厨子王の物語と直江津

 安寿と厨子王の物語は、昔は謡曲「婆相天」、近松門左衛門作の浄瑠璃、近年では森鴎外の「山椒大夫」などによって知られています。
 陥れられて筑後(九州)へ追放となった奥州陸奥国の大守、岩城判官正氏のあとを追って旅立った妻は、安寿姫と厨子王丸の二子を連れて岩城(福島)からはるばると父を尋ねて行く途中、直江津の応化の橋の袂で山岡大夫にだまされ、妻は佐渡へ、安寿姫と厨子王丸の姉弟は丹後の国(京都府北部)の山椒大夫へ売られてしまいます。
 姉弟は残忍な山椒大夫に酷使されながら逃亡の機会を見つけましたが、弟を逃がすために安寿姫はつかまって殺されてしまいます。
 無事のがれた厨子王丸は後に京に出て養子となり、やがて父の罪も許されて、丹後・越後・佐渡領域をいただきます。
 そして丹後におもむき、山椒大夫を死罪にした厨子王丸は、佐渡に旅立ち、母を訪ね歩きます。道端で鳥追いの老女の唄を聴き、盲目となった母との再会を果たします。

応化の橋と直江津橋

 昔、直江津橋の付近に、おうげの橋(漢字表記は、応化、往下、逢岐、王源などある)があり、上杉謙信は、この橋に通行税を課していました。御館の乱でくずれ落ちた橋を景勝が修復しましたが、松平忠輝の高田築城と共にこの橋は壊され渡しのみとなりました。以降、明治5年(1872)まで橋は架けられませんでした。
 現在の橋は、昭和63年(1988)に関川改修のために北陸地方建設局高田工事事務所(現、北陸地方整備局高田河川国道事務所)が架け替えたもので、路線としては一般県道三ツ屋中央線であることから、管理は新潟県が行っています。

「直江津橋」そして歴史探索

 JR直江津駅北口を出て、約700mという近さに「直江津橋」があります。直江津橋から下流を望むと荒川橋と関川河口が、上流を望むと近年信越トレイルが人気の関田山脈を眺望することが出来ます。
 昔、荒川橋近くには安寿姫と厨子王丸の供養塔が建てられていましたが、やはり関川改修のため、昭和62年(1977)に河口付近の琴平神社境内に移築されています。この供養塔は、林芙美子の「放浪記」にも紹介されています。
 また、神社には、松尾芭蕉が元禄2年(1689)に「奥の細道」の旅で直江津に訪れた際に詠んだ「文月や六日も常の夜には似ず」の句碑があります。
 この他にも直江津駅周辺には、景虎と景勝が跡目争いをした「御館の乱」の舞台となった跡地や浄土真宗を開宗した親鸞聖人ゆかりの五智国分寺などの寺院があります。是非一度、訪れてみては如何でしょうか。
安寿姫と厨子王丸の供養塔
海岸に近い琴平神社にある安寿姫と厨子王丸の供養塔
琴平神社にある松尾芭蕉の句碑
同じく琴平神社にある松尾芭蕉の句碑

参考文献

  • 上越市ホームページ: http://www.city.joetsu.niigata.jp/

    基本データ

  • 所在地:上越市川原町
  • 構造形式:6径間単純鋼箱桁橋
  • 橋長:237.9m
  • 幅員:13m
  • 竣工:昭和63年(1988)11月

    アクセス

  • JR直江津駅(信越本線)より、徒歩で約7分

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