第7回(平成21年12月7日)

関東と新潟をつなぐ鉄路の大動脈  JR上越線清水トンネル
               (南魚沼郡湯沢町・群馬県利根郡みなかみ町)

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

【写真-1】清水トンネル(土樽口)  川端康成の小説「雪国」冒頭のこの文章は余りにも有名ですが、「国境の長いトンネル」とは、JR上越線清水トンネルのことを指します(写真-1)。
 清水トンネルは、JR上越線土合(どあい)駅と土樽(つちたる)駅の間にある全長9,702mの山岳トンネルで、名峰そして魔の山としても知られる谷川岳を盟主とする谷川連峰の真下を貫いています。1922年(大正11年)から工事が始まり、工期約9年、当時の金額で約1,500万円(現在の価値に換算して約150億円)の工事費を投じて、1931年(昭和6年)8月に完成、同9月1日に上越線水上〜越後湯沢間が開業し、上越線がここに全通しました。当時は日本一、世界でも第9位の長さを誇っていました。トンネルの名は、徒歩時代に上越国境越えに利用された近くの清水峠から名づけられました。
 東京から新潟へ鉄道で行く場合、清水トンネル開通前は、高崎から信越線で長野・直江津を経由するか、郡山から磐越西線で会津若松を経由する方法しかなく、いずれも遠回りでした。信越線経由の場合、途中に碓氷峠という難所があったこともあって、急行列車で11時間以上を要したそうですが、清水トンネルの開通によって、距離で約98km、時間にして約4時間の短縮が図られ、7時間ほどで新潟へ到達することが可能になり、利便性が大きく向上しました。
 その後長らく清水トンネルは上越国境を貫く唯一の鉄道トンネルとして人・モノの往来を一手に引き受けてきましたが、単線であったため、客貨の交通量の大幅増加に対応しきれなくなり、1967年(昭和42年)9月には、隣接して下り線専用の新清水トンネル(全長13,490m)が開通しました。以降、清水トンネルは上り線専用となり、現在に至っています(図-1)。
【図-1】清水トンネル(赤破線)と新清水トンネル(緑破線)

清水トンネルの建設技術

【図-2】上越線ループ箇所

■ループ線による掘削長の短縮

 清水トンネルは、まだトンネル掘削技術が十分発達していなかったことや厳しい予算事情から、掘削長を極力短くするため、なるべく標高の高いところでトンネルを掘ることとしました。その分、トンネル前後の区間でふもととの標高差を多く稼ぐ必要がありますが、当時の機関車牽引能力から勾配の限度は20パーミル(水平距離1000mで高低差20mとなる坂の勾配)とされたため、通常の線路の敷設方法では、必要な標高差を稼げません。そこで、線路をらせん状に輪を描くように敷設することで、ゆるい勾配で標高差を稼ぐループ線が清水トンネルの前後に設けられました。JRの路線図(図-2)をご覧いただくとわかるように、土合駅と土樽駅の近くで線路がそれぞれ輪を描いています。このようなループ線は全国でも珍しいものです。湯檜曽駅上り線ホームからは、ループ線の線路を見上げることが出来ます(写真-2)。
  ※湯檜曽(ゆびそ)ループ線:湯檜曽〜土合間。曲線半径402m、最大勾配20パーミル、交差箇所の標高差46.5m
  ※松川ループ線:土樽〜越後中里間。曲線半径402m、最大勾配20パーミル、交差箇所の標高差44.0m 【写真-2】湯檜曽駅上りホームからループ線を望む

 なお、1960年代に建設した新清水トンネルは、掘削技術が進歩したため、土合より東京寄りの湯檜曽から土樽まで直接結ぶように掘削しており、トンネル全長は約13.5kmと、清水トンネルの約1.4倍の長さとなりました(図-1)。トンネル前後のループ線もありません。また、このとき、湯檜曽駅と土合駅の下り線ホームが新清水トンネルの中につくられ、特に土合駅下り線ホームは、駅舎との標高差70.7m、486段もの階段を登らないと地上に出られない、日本一のモグラ駅として有名になりました。

■機械施工による掘削作業

【写真-3】削岩機を用いたトンネル掘削作業  現地は海抜2,000m近い山岳地帯で、交通の便も全くなく、さらに屈指の豪雪地帯でもあるため夏の数ヶ月間しか測量ができない状態で、二年以上の月日を費やして地形測量や中心線測量が行われ、1921年(大正10年)秋にようやく両坑口位置が決定されました。
 建設は、全長をほぼ中央で二分し、群馬県側を鉄道省東京建設事務所が、新潟県側を同長岡建設事務所が施工しました。当時は第一次世界大戦の影響で諸物価が高騰し、労働者の確保も困難だったため、請負人を雇わず、削岩機や「ずり」出し機械などの機械力を最大限に活用した直轄施工として、工事費の低減を図りました(写真-3, 写真-4)。

【写真-4】機械による「ずり」出し作業

■掘削方式

 掘削方式としては、閃緑岩による比較的堅固な地質区間が主であったため、支保工なしのベンチ式(※1)や新オーストリア式掘削(※2)(図-3, 図-4)などが主に用いられました。大量の出水により掘削が一時中止に追い込まれたこともありましたが、排水トンネルを別に掘るなど苦心の末、1922年(大正11年)8月18日の掘削作業開始から9年後の1931年(昭和6年)3月14日に、最後のコンクリートブロックはめ込み作業が行われ、トンネル構築はほぼ終了しました。
【図-3】ベンチ式掘削 【図-4】新オーストリア式掘削

■集落の新設

 現地は、土合口・土樽口とも既存の集落から遠く離れていたため、両坑口付近に、宿舎・病院・共同浴場・分教場・日用品販売所などを備えた集落がつくられ、多くの作業員やその家族がそこで暮らしながら、トンネル建設作業に従事しました。
 投入された総延べ人数は直接・間接合わせて約300万人、殉職者は群馬県側で18名、新潟県側で26名、合計44名に達しました。

  (※1)ベンチ式:トンネル断面を上部・中部・下部の3つに分け、上から順に掘り下げていく方式
  (※2)新オーストリア式:底部導坑、上部導坑、上部側壁、中間部、下部側壁の順に掘り進む方式

現在の清水トンネル

【写真-5】土合駅上りホーム  1982年(昭和57年)11月に上越新幹線が開通し、鉄道による旅客の大半が新幹線を利用する時代の到来とともに、上越線で上越国境を走る列車の本数も減少し、2009年(平成21年)現在、清水トンネルを通る定期旅客列車は1日5本の普通列車と3本の夜行列車のみとなりました。トンネル前後の土合・土樽両駅も、数多くの登山客やスキー客で賑わった時代は遠くなり、今は無人駅となってひっそりとたたずんでいます(写真-5)。一方、貨物列車は平日に11本/日が運行されており、鉄道貨物輸送にとっての動脈の役割は引き続き果たしています。
 清水トンネルを通じた人やモノの行き来は、「雪国」の冒頭の文章自体が象徴するように、新潟にも、関東にも経済・文化の両面で極めて大きな影響を及ぼしてきました。およそ80年も前に10km近くにも及ぶ長大山岳トンネルを掘削した土木技術の素晴らしさとともに、その後の清水トンネルがもたらした功績は後世に語り継ぐにふさわしいものであり、貴重な土木遺産であるといえるでしょう。

【写真-6】上越北線殉職碑

現地の関連モニュメント

 清水トンネルに関するモニュメントとしては、群馬県側に上越南線殉死者供養塔(旧湯檜曽駅跡地付近)と上越南線直轄工事記念碑(土合駅前)が、新潟県側には上越北線殉職碑(写真-6)があります。上越北線殉職碑は、新清水トンネル土樽口から、上越線下り線と並行する道をたどって土樽駅方向へ少し歩き、沢を越えた線路脇に、新清水トンネルの慰霊碑と並んで立っています。谷川連峰茂倉岳や蓬峠への登山口に近く、渓流釣りも盛んなエリアですので、それらのついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

参考文献

  • 上越線水上・石打間工事誌第1巻〜第5巻、鉄道省東京建設事務所ほか、昭和8年9月〜10年11月
  • 日本鉄道請負業史(大正・昭和前期編)、日本鉄道建設業協会、昭和53年3月
  • JR時刻表2009年8月号、交通新聞社
  • JR貨物時刻表2009年版、社団法人鉄道貨物協会、平成21年3月
  • 日本銀行ホームページ(『企業物価戦前基準指数』)
  • ウィキペディア(Wikipedia)

    基本データ

  • 所在地:群馬県利根郡みなかみ町湯檜曽、新潟県南魚沼郡湯沢町大字土樽
  • 駅 間:上越線土合〜土樽間
  • 延 長:9,702m
  • 工 期:約9年(1922年〜1931年)
  • 開 業:1931年9月1日

    アクセス

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